mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

始めの選択

矢の向いてる方向を自分で把握するには、感覚が必要です。矢の先からレーザーポインターでも照射出来たら良いのにと考えた事も有ります(^-^; しかしそれは左右のみの確認で、水平はやはり感覚を養うしかないでしょう。
 ところで「始めの選択」は「自分の躰と矢を常に平行に引く」と「矢を常に的に向けて引く」です。今は前者で前は後者を意識していました。学生時代の大三では矢が後ろを向いていたと思っています。どれも中りは取れるでしょう。今では、的より後ろに矢が向くほど引き分けで押手は楽をし、勝手が力むのではと思っています。「会」に入った時点で狙いが付いている事に利があるのはやはり常に平行でしょうか。左右均等な引き分けにも適している様にも思えるし、躰で狙いを付ける感覚や、無心な詰め合い・伸び合いにも有利とも思えます。
 ただ、学生の様にあまりに短期間で安定した中りを取ろうとする時には、押手の肩をしっかりと開く意識も必要かもしれません。今思えば、そんな時代の正射も理解できないままに闇雲に中りを取ろうと考えて引いていた時期も良い経験だったかもしれません。と思いたいです。
 常に的に矢を向けて引き分けていた時は、「会」に引き込む直前にもう一つ勝手を引き納める感覚で、そこから押手で離れを誘うなどと考えていました。実際、「離れは押手から」とよく耳にしていました。単純に考えると、右手で弓を引いているのだから始めは勝手離れと成り易いために、離れは押手からと意識する事で均等になるとの解釈も持っています。射法訓の弓手三分の二弦を~の考え方と似ているのかなぁと・・・・
 現在の平行に引く選択は、正面打ち起こしと斜面の違いを考えてからを動機にしています。それはそうとして、正面打ち起こしの大三と斜面の打ち起こしは結局は同じという考えはやはり危険でしょうか?何か手の内の感覚も、大三を矢尺の半分で射付け節辺りを押す意識の中では、さほど大きくは違いの無い様にも思えています。やっと気づいたのか?と言われる方もいらっしゃるのしょうか。
 これらのことから、大三で必要以上に「手の内」を的に向けず、引き分けで弓戻って来るのに任せ、親指と中指の自然に締まって来る感覚を得ながら引き分けています。

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