mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

引き分けで左右均等が難しくなる時

一言で左右均等と言われてもねと始めの間は思っていました。では現在はどうかと言うと、今でも自分の感覚に頼って均等を保っているに過ぎません。

以前にも言ったように、正しい感覚が身に付けば良く、その為に何度も繰り返し練習を重ねるのです。ただ闇雲に練習しても正しい感覚が身に付く事は難しいかもしれません。逆から言うと、矢が素直に動けば均等は取れているのではないか?と考えられるでしょう。矢が最短距離を通る道は理屈に合うと考えられるでしょう。終点はある程度予想出来るので、問題は弓構えでの構え方と打ち起こしでの身体との距離と高さです。したがって、弓構えと打ち起こしは充分に検討したいですね。

肩や肘、手首と身体との関係を考えて弓構えをし、肘の高さを考えて打ち起こしをする。その位置から矢が最短距離を動く弦道を見つけると考えると、引き分けであれこれせずに素直に会に向かえると考えてみましょう。それがある程度身に付くと弓を引く基礎が出来上がる。そこから色々な肉付けをしていく。その時にはあまり細かな技術に囚われず、焦らない。結局はこれが順路なのに、経験者の色々な技術や教本の知識を見つけて実践したくなる。やがて、肩や肘の納まりを気にしないとならなくなる。悪循環とも思える事ですね。初めの頃は人により進歩の度合いに差が出ます。これも弓道に限った事ではありません。射法八節での無心は非常に大切ですが、無心に自分の背丈そのままに練習する事の方が難しいかもしれませんね。

悩む人の話しを聞いてみると、手の内や押手、右肘、取り懸け、離れに悩む人がほとんどですが、引き分けが変わると手の内の感覚も変化するという事を深く考えてみたいですね。

「真善美」を私流に解釈すると、多くの物が集まって全体が調和している事が善い物で、部分的な高度な技術が善いよりも全体が一つに見えた時に美しいと考えています。そうでないと、弓道に縁の無い人、弓道の知識を持たない人に美しいと感じてもらう事は難しいでしょう。未経験な弓道の知識を持たない人に手の内の良さや会の納まりなど感じるはずは無く、ただ良い景色や花を見る様に美しいと感じてもらえる射が本当の「真」だと思われます。美しい物を見て何故美しいかを説明する事は難しいです。いわゆる嗜好や感性の範疇だからです。自分が素直に美しい物を見て美しいと感じる様な感性を豊かにして、その自分が美しいと感じる射が本当の正射とも言えるでしょう。しかもその美しさの基準は人それぞれで、誰にも否定される物はありません。

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