mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

「離れ」

一切の理屈や基本を除いてから単に「離れ」を単純に考えると、どうなるでしょう?
「引いた弦に矢が番えて有り、その矢を狙った方向に飛ばす動作」としてみます。その考え方で「離れ」を言うと、「体と弓が不自然に動かなければ狙ったところに飛ぶ」という前提条件を意識できると思います。まずは「体が不自然に動かない事を一つの文だけで言い表して下さい」という問いに答えるとしたら何が最後に残って来るでしょうか?「胸の中筋から左右に分かれるが如く」の左右均等がまず浮かんでくるのですが、ここでもう一度、この根底にある意味の二つある思いを区別してみたいと思います。
一方は「左右に分かれたように見える」です。今はこちらを指標に考えています。離れで会と一致しない動きを加えないという事です。私だけの言葉になりますが、「肩を使って離さない」という事です。微妙な色合いを感じてもらうと助かるのですが、「残身を作らない」「弓力から解放された時の自然な動きに身を任せる」とも言い換えられます。結局、思う残身が執れるように弓の引き方を練習する事で、会の状態や引き分けが定着して一定と成らない内にいつも同じような残身を取り繕う事は、自分で射の判断(反省)をする妨げになっていると思っています。他方は手の内や肩に離れで意図的に力を加えて胸を開き、「大離れが今の流行り」等と意識して勝手を大きく広げる様に残身を作る引き方です。これはこれで身体に覚え込ませると後々自然に出来るようになるという考え方を否定してはいません。それがまだ定着せず、矢所が乱れている人の多くに離れの不自然な力味を感じているのも確かです。
ここで「雨露離」の解釈に私なりに思っている三つを表現したいと思います。
一つ目は、葉先に露が少しづつ溜まっていく感じを会の詰め合いに重ねて、露自体の重さが限界に達した瞬間に落ちる露と離れを重ねて比喩しているもの。
二つ目はそこに更に加えて、落ちた露を追う様な感じで流れの余韻が続いて落ちて行くのを残身の気の抜けない張った姿に比喩しているもの。
三つ目は、ぶら下がった露が葉先から落ちた瞬間にピンと跳ね上がる小枝の反動に離れを重ね合わせたもの。露の溜まりが多いほど跳ね上がりも大きくなるという会を育てる意味を思うもの。
結局この三つは区別なく同時に思う事と思っています。
「引き分けや会」と「離れ」の一致を思っていても、「引き離し」となるのは避けるべきなので、この辺りのイメージは「離れ」の印象を左右する大事な部分だと思っています。「矢道を開ける」「弦に触らじ」などの教えは不自然な動きをしないで、弓の邪魔をしないという感じに捉えています。
次に、弓の不自然な動きは「手の内」、「胸弦」で解消すべきものでしょうが、「手の内」は親指の付け根一点よりも、手首までの「手の内」全体で受ける方がより安定します。弓を引き絞った状態から離れを安定させるために、手の内、弦溝、胸弦の三点保持が良いでしょう。どうも握りの位置は、弓の回転時に反動の少ない箇所が二つ有る内の一つに設定してあるようです。要は、どんな弓を使っても回転にむらが無ければ手の内への反動も気にしないで良いという事みたいです。
以上の事から、「離れ」は弓の姿勢に気を付け、余分な加力をしなければ、より安定した軽く鋭いものになると思います。押手などは的にどこまでも思いを馳せていれば、自然に納まるべき位置へと自然に動いてくれるもので、意図して動かす場所を思って離すのは少しばかり見せかけの残身だと思っています。したがって、自然な離れは自由に動く力みを取った両肩から生まれるべきで、体を出来るだけ脱力し、肘や肩を固める事は避けていたいです。八節も元は七つです。残身は体に任せたいと思っていますがどうでしょうか?「的は動かない、動くのは自分」という原点は、まずは離れで何もしない事から始まるような気がします。それで同じ所に矢が集まると中りも安定する理屈です。少し段階が上がってくると、見ている所に矢が飛ぶという結果を良しとして求めています。

「結局は」のまとめ1

力を入れるにしても、力を抜くにしても一か所だけでは無理です。問題の部分(自分なりの修正目標部分)だけを見つめていても事は始まりません。実は左右の均等が崩れた状態に外から見えていても、その人の内面的な感覚の均等の取り方が癖付いているのでしょう。本人はちゃんと左右均等にしている。そのために悪い所だけを直そうとして一生懸命に練習していても思うように修正出来ないのだと思います。本人は至極真面目に取り組んでいます。
例えば大三で左肩が上がっている人に「肩を下げて」と言って手を貸すとその場では治りますが、自分で再度試してみると元の大三に近いものになってしまいます。直される場合、手を貸してあげる場合のどちらもそんな経験をお持ちではないですか?私の周りでは多く見受けられる普通の事です。
結局は左半身の気になる部分の修正は右半身との連携で直す事が再発の予防に必要です。
別の例を挙げてみると、左肩が負けている人に腰の左右のズレを直すと治った場合が有ります。その人は水平方向で左腰が下がって立っている癖が有り、左脇が負けていました。左足の付け根から左肩までの全体で弓を受けている感じです。この状態で左肩だけを直す事は無理だったので胴造りから右足を的方向に突っ張る意識を持ってもらい、腰を水平にして、右脇が裏的側に湾曲しないように右足の付け根に手を添えて補助すると左肩も良い位置へと変わっていきました。すべての人には勿論当て嵌まりはしないでしょうが、そうゆう場合も有ります。この人との関りには続きも有って、それは練習後に何も告げずに腕組みをして「休め」の姿勢をとって頂いたんです。その後で、「腕組みの上になっている方と下になっている方を組み替えて、休めの姿勢で体重を乗せている足を左右変えて」と言ってその場で試みてもらいました。本人曰く「凄くぐつが悪い」そうです。これが習慣による身体の癖です。腕組みでは組み方も迷うほどでした。手に荷物を持って歩く時も殆どが右手だそうです。私自身も左膝の調子を崩して整体に言った時に左足が少し短めだと告げられた経験を持っています。人は両足で立っている時でさえも無意識に落ち着く方へ体重を乗せている場合が有るそうです。骨格には異常は見受けられなかったようで、日頃の生活で意識的に右足の方へ体重を乗せて様子を見て欲しいと言われて実行し、だんだんと左膝の痛みが解消された経験を持っています。痛みが消えてからは常に交互に体重が乗るように意識しています。
頭では日頃から姿勢を良くしてとわかっていても、体の使い方の癖まではなかなか目が向いて行かないのが普通です。しかしながらその癖の影響を弓道では無視できないと思っています。日頃の所作を変えると感じが悪い様に、弓を違う引き方にすると感じが悪いので、慣れた方を自然に体が選択してしまう。それが修正の妨げになっていると考えています。他人から見て左右均等が崩れて見えても、本人の感覚の中では均等に引いているのではないでしょうか?その習慣を崩して感じの悪い引き方を我慢しないと全てはだんだんと無意識に元に戻ってしまうと考えています。感じの悪い状態を続けて、それが普通に感じられてくるまでじっと我慢しましょう(^.^)日頃の習慣を変える事で射癖が治ればと思って立ち姿や体重移動の癖などにも目を向けて行きましょう。「真っ直ぐ立って真っ直ぐ引く」この単純明快な事を意識する時に何とぐつが悪いと思っても客観的に見てしばらくは我慢しましょう。

必要な段階

弓道に特殊な体の使い方は無いと思っています。日常で私たちが無意識にしている身体の動かし方で、殆んどが事足ります。要は全身を使って弓が引けたなら、それだけでも及第点だと思っています。無意識にしている動作の「呼吸」「歩く」「走る」などは意識した途端に難しいものになりやすいですね。例えば徒競走などで、気ばかり焦って足がついて行かないで縺れそうになった経験も有ります。そういう風に考えてみると、自分の体に気を向けて(矢と一緒に気持ちを飛ばさない)自由に体を動かせれば、それなりに弓は引けると思っています。ここを出発点としての第一段階を乗り越えられたならば、そこから先のあらゆる基本の下地となってくれるでしょう。これを踏まえて、大三の執り方を思うとやはり出来るだけ狭い感じが良いと考えています。両手の方から肘までの角度を出来るだけ合わせて両手を同時に動かせれば本来の左右均等も解りやすいと思います。整体を中心にされているサイトで「肩のゼロ・ポジション」なるものを目にした事が有ります。その中での表現を借りると「グリコのポーズ」に近い様に書かれていてそれが大三の押手の位置に近い様にも書かれていました。水平から45度上に挙げて左右に45度開いた感じです。ここが肩のニュートラルな位置だと説明されていました。どこにも負担の無い肩の位置という事です。ご承知の通り「肩甲骨」は中に浮いた感じで筋や筋肉の全体のバランスで構成されています。他の所謂「関節」とは違って肩回り全体を「肩関節」と広く表現する事も有るようです。そのポーズから右手の肘先を弦に任せた感覚で大三を執れれば、負担の無い楽な大三に近い様に思っています。中心は肩の状態です。押手の肘や手の内を意識し過ぎないで両肩や右肘にも同じ重さの注意を配れれば成功だと思って初心の方にも説明しています。両肩が崩れないまま会を迎える事が出来ると、自然に詰め合いも離れの伸びも殆ど自然に出来るでしょう。手の内は時間を掛けてじっくり取り組むべき個所なので、弓への当て方の感覚のみでしばらくは「無視」する位でも良いと思っています。私は「弓は引かなきゃ押せないよ、まずは引かなきゃ」と言いますがどうでしょうか?教歌に有る「引く矢束、ただ矢束」の二つも上達の過程のいくつかの段階では必要だと捉えています。ちゃんと引き込めていないのに、「押して押して」と意識させるのは無理な段階も有るでしょう。ちゃんと引く前に手の内(角見)中心の射になると小手先の技に陥りやすいと思っています。多少力むのは当たり前で力んだ勝手に対抗するには、手の内がべただったり、握って力んでいてもそれで左右の均等は取れるとかなり危ない考えも持っています。実際に手の内はきれいに見た目が整っていても引けない人が結構いると思っています。逆に手の内で突っ張ったような押手の負けた引き分けに見えます。なので、この力んだ引き分けから始まるのが自然と考えて、思いっきり引いてもらうという考え方は乱暴でしょうか?やはり基本優先?悩むところですが、別の根拠も聞いて下さい。下手の横好きで草野球のピッチャーをしていた時によく考えていたことですが、少々コントロールが悪くても速い球が投げられるというのを羨ましく思っていました。その頃は、コントロールは練習量で身に付くけれど、早い球を投げれることは一つの才能だと良く耳にしていました。適度に(あくまでも適度に)荒れ球で早い球はなかなか打ち返せません。弓道に直結して考える事は難しいとはわかっていますが、多少力んでいても自分より強い弓を引いている人を見かけると、弓力を上げたくなります。相克相生と基本はわかっていますが、何と言ったらよいのか、本能的に対抗してしまうんです。まだまだ子供ですね・・・(^.^) しかし、男である以上無くしてはいけない気持ちとも思っています。となるとやはり弓道は平常心・・・この気持ちも素直に受け止めて付き合っていきたいと思います。まずは細かい事とは並行して、充分に体全体を使って引くという事も時折ワザに意識してやっています。