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未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

弓道の余談

稽古の「稽」は訓読みでは稽えると書いて「かんがえる」と読めるらしいです。それはつまり稽古するとは「古い事を考える」というのが元々の意味となるでしょう。

射法訓の前文に書いてある「弓箭は無邪なり」に関連して考えてみると、弓を引く事の昔からの根底にある物を考え、弓道は単純に考えるべきで、どうしても考え過ぎてしまう人の習性に釘を刺している様な戒めにも聞こえます。

角見然り、取り懸け然り、胴造りや足踏み、手の内や離れなど複雑にしているのは自分自身かもしれませんね。弓力に負けない自然体を造り、弓をしっかり持って、大きく引く事で多少の粗は消えていくのかもしれません。

まずは引く事。大きく引ければ押手も強くなる。押し引き自在になれば手の内や取り懸けは未完成でも中たりが得られる。

結局は色々試しても今までの自分の射は基本的には変えられない。なら愚鈍に自分の射に磨きをかける。稽古とは本来こんな感じなのかもしれませんね。一本道ならスタートとゴールに悩む事は無いでしょう。分かれ道で迷ったら、初心に帰るという意味で元の別れ道に帰る事が大切です。別れ道を進んでいる時にまた別れ道に出会しますが、そこで無意識に本道に帰れるかどうかで稽古の効率は別れるでしょう。先に先にと枝道に進むと元々歩いていた道が解らなくなります。どこに行きたいと思っていたのか忘れない様に歩きたいですね。一切の主観を加味しないで考えると、目的地が見えないのは単純に良いとは言えないでしょう。例え目的地が自分の考えた場所と違っていても無駄にはなりません。とりあえず最初決めた目的地に行ってみましょう。それが確かな経験となる様に思います。この人がこう言ったからこうしてみる。また違う人がこう言ったからこうしてみる。そんな事を繰り返していると肝心な自分の良さも無くしてしまうかもしれません。かと言って一人の人に付いて進むだけでも選択肢は減ります。考え過ぎて自分を見失わない様に初志貫徹した方が良いと思います。その中でヒントをくれる人の言う事を検討したら良いでしょう。誰に対しても同じ事を言っている人はあなたの望む所には連れて行ってはくれないかもしれませんよ🙂

あなたの射はあなただけの射です。人と同じにはなりません。基本、基本と言う人もはっきり言うと要りません。勿論指導者批判では無いです。何故基本がそうなっているのかを教えてもらいましょう。質問が大事です。私も沢山のヒントを頂いて来たので指導者には感謝しています。ただ、自分の射を一番だと思っている人は案外考え方が偏っているものです。「こうなんよ、これが正しい」よりも「私ならこうする、こうしてみたら」を選択してみるのも良いと考えています。現実は教えてもらうだけで自分が考えないと上達は難しいでしょう。その時に余り考え過ぎて複雑にしない工夫をしたいという話しです。特に若者には伝えたい事ですね。

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