mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

弓道のそもそも論

今回は射法訓の前文を紹介します。道場に有る射法訓は全文ではありません。

 抑抑(そもそも)、弓道の修練は、動揺常無き心身を以て押し引き自在の活力を有する弓箭(弓矢)を使用し、静止不動の的を射貫くにあり。

 その行事たるや、外頗る(すこぶる)簡易なるが如きも、其の包蔵する處(ところ)、心行想(真行草とは字が違う)の三界に亘(わた)り、相関連して機微の間に、千種万態の変化を生じ、容易に正鵠(的芯)を捕捉するを得ず。

 朝に獲て夕に失い、之を的に求むれば、的は不動にして不惑、之を弓箭に求むれば、弓箭は無心にして無邪なり。唯々これを己に省み、心を正し身を正しうして、一念生気を養い正技を練り、至誠を竭(つく)して修行に励むの一途有るのみ。(ここまでが前文)

 正技とは~に続きます。が原文では「射法は」ではありません。ここは変えた表現にされています。原文は正技とは、弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり。と続きます。私個人では正技という技についてと射法という技に関係なく共通するものは微妙に違うと考えるので、言葉を変えた意図は未だに理解していません。

前文の要点を私なりに解釈すると次の様な感じです。「的は動かないし、弓も引く人の自由になる(弓にも矢にも意図は無い)。したがって、心身が揺れ動くのは引く人自身だということです。朝的芯に中ったからと言って夕方にも同じ射が出来るとは限らないので常に一本一本を真剣に引きなさい」の様な内容で捉えると分かりやすいかもしれません。心行創とか難しく説明出来ませんが、ともかく平常心や無心はやはり大切だと想像出来ます。外れ矢は自分のせいだと言っている様に聞こえるでしょう。弓は単なる道具と捉える事も出来るし人格を持つ物と捉えても良いしその他自由にして良いと思っていますが、それも個人の自由なので自らが責任を持つべきと言えます。弓のせいで外れません。

今回射法訓を挙げたのは、取り敢えず古い時代の正技を知り現代に合わせた自分の理論をいずれは確立する方が的中は上がっていくと考えられるという意図も含みます。時代それぞれにその時の正解が有るでしょう。どれが良いではなくどれも良いと広く知識を求める方が柔軟で良いと思います。「弓道はこうでなきゃ」と決めない方が良いです。

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