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未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

簡単に考える弓道射法八節「会」

会は何でしょう?

「会者定離」から会と離れを取ったというのをうすうす聞いていますが、それも八百年前の言葉と。私は会よりも離れが中心の言葉と思っていました。はっきり調べないでこうだろうと思い込んでいる事ってかなりあると今では疑って反省しています。実際の所、禅や仏教まで話が広がると難しいので出来るだけ簡単に「会」を考えてみます。

前提は二つあります。引いた結果離れが出る、良い離れを出す為引いてくるの二つです。

どちらも似た様な物ですが、ほとんどの人は後者ではないでしょうか?とにかく離れが気に掛かっている。残身(心)手の内を考えて引いている。引き分けながら離れを考えている。勝手の開き具合を考えて離れに向かう。実際は結果からの逆算は基本に反していると思っていますが、自然の離れが出ない段階では離れを考えている方が普通に思われるのも確かです。

肩線より顔の幅ほど前に矢が有るので、両肩を矢に近づける詰合いには限度が出ると思われます。ずっと近づけ続けると矢こぼれします。鎖骨と肩甲骨の長さはほぼ同じですが、肩甲骨は肋骨に沿って弧を描き動くので、会でも少し前に向いてます。それが押手を的に押さないで弓を押す根拠の一つとなるでしょう。矢筋に弓力が有る事で弓を押し続けて離せば押手は的に開き、勝手も同じ位置に開かれるのが自然です。しかしながら肩の真横までは動かず、押手は一拳斜め左下に、勝手の拳も矢筋から斜め右下に落ち着きます。これは矢筋に張っていることで自然に起こる事なので自らはしない方が良いと考えています。残身(心)での勝手の拳の位置で右腕の開き角度が決まるでしょう。故意的に右腕を伸ばしたら拳は肩線により過ぎです。会に入る直前は右肘に意識がありますが、離れは矢筋に変わり右肘に意識が無い方が軽く離れて見えるでしょう。詰合いは胸と背中のバランスを取ると考えて良いと思っています。胸の開きが勝ると本来の詰合いと違ってくるのではないでしょうか?矢筋の張りは自然には起こりません。弓とバランスを取る事で出来ます。しかし、残身(心)は自然に起こる。この違いが曖昧で、会で伸びよう伸びようとして肩や肘を使って離そうとしなければ、的中を取りながら射を磨いて行けると考えています。肩や肘を使わないと言っても矢尺を伸ばすわけでもないので、弓の戻る力に合わせて矢尺を変えない様に矢筋で保つのが会と考えてみましょう。同じ力で保つと必然的に勝手は弛んでしまいます。なので無限に引き続ける引かぬ矢束は当然目指す所となります。それを少しでも助けて身体で受ける位置が勝手の納まる位置になります。その時に弓力を受けて右肩が浮かない様に気を配る必要があります。したがって、引かぬ矢束は肘から手先に起こる現象で、右肩周りがうまく使えずに右肩が浮いてしまった方が基本には近く、肘の引きが甘く腕全体で会を保たなければならない間は引かぬ矢束には遠く、突き離れが起こるのは仕方が無いですね。この事から弓は力が入ってもまず引かなきゃ始まらないと言えるでしょう。

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