mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

弓道を噛み砕く事

たいがいの物事には二面性が有ると思ってきました。時には相反することも同時に存在します。「諸刃の剣」と言って良いのかまでは分かりませんが、いくつか課題として屁理屈めいた事を挙げてみようと思っています。

「足踏み」「胴造り」ですが、踏むと造るの言葉のニュアンスを少し考えてみませんか?

以前書いた「結果的にこうなる事を意識的に行うと力む」事のおさらいになりますが、まず踏むから。足は自分の矢尺に開くので動作の表現として素直と思うのは「足開き」です。足踏みと聞き慣れた私にはなんか語呂が悪く感じますが、語呂からだけでは無く自然体に照らすと「踏む」に能動的な力味を感じませんか?まだ弓を引く前で身体を支えるだけなら、膝関節を伸ばして開けば自重で安定します。そのままの動作を見ても床の表面を擦らす様で踏む感じでは無いでしょう。案外踏むという言葉のニュアンスから知らず知らずのうちに力んでしまってないでしょうか?また、弓を引く事で自然に効いてくると私が思っている胴造りも予め造って固めてしまってないでしょうか?「無駄な力を抜く」という事に関しては異論の有る方はほとんど居ないと考えられるでしょう。後付けの言葉には色んな意図が含まれる事は珍しくありません。射法八節の言葉がそれに当てはまるとは言いませんが、初心の頃は能動的に何かをするというイメージで受け止めていた事は確かです。

確かに足踏みはきちんと足が地に付くようなどっしり感の印象を外見から求められるかもしれません。胴造りにしても同じ様にぶれない強さが求められている様に感じられます。しかしこれは結果としてそう見えているが、本人の意識は自然体でしょう。

二面性が同居していると考えられると表現したのはこういう事です。安定してしっかりと見えるべきでも、自ら力を入れて構えるのは少し違うかなと考えています。「しっかりとした胴造りは余分な力を抜いて楽に構えると良い」という事です。

弓道教本の第一巻射法編には肘を張るという言葉はありません。弓構えの円相でも、大三でも肘を張る場面はないでしょう。ましてや勝手を捻るなんて目にした覚えも無いです。私の知識不足の面も有るでしょうが、当たり前と思っている事にもう一度目を向けて、練習熱心、研究熱心から主観や偏りが起こってないか時には見直したいです。知識は必要ですが持ち過ぎても良いとは思いません。弓道を噛み砕く為には実践に則した首尾一貫した自論が必要でしょう。断捨離と同じ様に不要な物は極力捨てて、余分な物は持たない方がすっきりするかもしれません。極論になるかもしれませんが、的中だけを得たいならなるべく動作を単純にした方が良いですね。

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