mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

多くに意識を配る事は普通しない

しないと言うより出来ないと言った方が当たりかもしれませんね。

「聖徳太子じゃ有るまいし」です。

でも、私はこれをこうして、ここをこうしてとたくさん同時にやろうとする。思い上がりか、願望か、歳と共に妙なプライドを持ってしまっているのは確かな感じもしています。

「自分ならもっと出来るはず」よく冗談で口にする「やれば出来る子」と信じたいのが本心かもしれません。

一度に何箇所気配りできるものでしょうか?普通の人(普通っていう基準は非常に曖昧ですが)は同時に何かをするとなれば二つか三つが限界でしょうか。ただ言える事は常に姿勢を正す事、息を気遣う事は入場から退場まで続くとするなら、残りはせいぜい一つか二つです。という事は、姿勢を正しく保つ事と息に合っている事は無意識レベルになっていないと厳しいかもしれませんね。そこがクリア出来ていないから、何かに意識を取られると姿勢が崩れたり息が詰まったりしてしまう可能性は否めないでしょう。

入退場の歩行ではリズムを取って息に合わせて同じ立ちのメンバーと足並み揃える練習も行うでしょうが、射はそれぞれの間で引いている場合も少なくありません。しかし実際には、試合なら全体のリズムが良い方に利が有ると思えるし、審査でも他の演者への気配りは必要となるでしょう。唯我独尊マイペースはチームには相応しくありません。何かに意識を取られるとリズムは乱れます。しかも人それぞれ意識の先は様々です。取り懸けが気になると弓構えに時間を取るだろうし、妙に引き分けが長かったり、残身(心)が短かったり、打ち起こしが早かったり、弓倒しで人に弓を当てたりと色々起こります。

審査練習でも、試合の運行でも始めは全体の流れから入ります。この事は、自ら射法八節でも同じと考える事は大切に思っています。

言いたい事の焦点は、全体の流れからリズムを掴む事、無意識の領域を広げる事、一旦打ち起こしたら覚悟を持って最後まで一本筋を通した射を心掛ける事、他者との間が適切な事が実に的中を左右すると思っている事です。気持ちの余裕を造らないと息合いである場の掌握はままならないでしょう。

常にここをこうして、ここでこうしてと気持ちにストレスを掛け続ける事になると、自分本来の射をする事さえ難しいですね。何回もくどく言うようですが、何も意識せず自分の在りのままの射がその人の一番良い射となるべきでしょう。剣道をしている人に聞いた事が有るのですが、一番強く避けがたい攻撃は「無心の一撃」だそうです。合気道の場合は相手が攻めるから倒せると聞きました。弓道は敵と直面しませんが、案外「中ててやろう」がスキとなるのかもしれませんね。いつか本当の無心の射をしたいものです。

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