mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

弓道の亜流

ここで一旦、このブログの目的だったわかりにくい所を簡単にする噛み砕くという事について検討します。

まずは技術について「そもそも動作自体が単純」だから敢えて複雑に考え過ぎてしまうという一面がある事は頭に置くべきでしょう。最終的には無心に引く。その為に技術を考える場合は意識が先行するという矛盾が起こります。人は考える動物なので、本能的に動く場合でも脳が色々命令を下すという習慣が当たり前な日常生活を過ごしていて、それは歳を重ねる毎に制約は増えていきます。例えば大人になるに連れ人前で泣きたい時に素直に泣けないなど「こうあるべき」という姿を求めていく様になります。子供は泣きたい時に所構わず泣く事で気持ちのリセットが出来て、「今泣いたと思ったらもうゲラゲラ笑っている」という事が普通に出来ています。しかし大人は男だから、女だから、社会人だから、大人なんだからの類いの事を学び、素直に感情表現する事が制約されます。これは弓に直接関係していない様に思えても、いわゆる弓道に対しての理想論、理想像が誰にでも潜在的に芽生えているのだとも考えられるでしょう。「一流になれる人は素直」という事を前にも挙げましたが、実は「素直で正直」が世の中で一番大切で尚且つ一番難しいのでしょう。思うまま行動して思うまま口にすると社会人としては駄目だというレッテルを貼られかねません。

弓道は基本が大切で尚且つ一番難しいと思えるのにも似ています。特に武道なら、「感情は表に出してはならない」と認識している人は決して少数派ではないでしょう。かく言う私もそういう事をたくさん教わってきています。

的中を単純に喜び、素直に表現できる事は趣味なら別に不自然な事とは思えないのですが。こういう考え方もあろうと思っていても声に出しては言いにくいので亜流です。しかし、心の中でなら存分に喜怒哀楽を感じて構わないと思っています。

自らが弓を複雑化して、偶像化している面も在ると思っています。所詮趣味の範疇だと言えばかなりの批判が聞こえてきそうですが、精神の在り方としては自由ですね。精神的に縛られていては良い離れは出そうにないでしょう。

いつも思う事ですが、地域の射会や試合の余興などでは皆さん良い表情で、かなり良い所に矢が着くと思っていますがどうでしょう。

無心が「在りのまま」で全て受け入れるという考え方に一票を投じたいと思っています。たまには自由気ままな弓道はどうですか?表に出して無ければ全て個人は自由です。

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