mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

弓道教本と弓術書

私の中の感覚でまずは、「射法」と「射技」の差が「教本」と「弓術書」の違いとして進めます。教本自体も射法編と射技編に分かれていますが、取り敢えず多くの人が始めに持つ教本一巻を射法の中心にして、射法は多くの人に共通する物で射技はそれぞれに特徴がある物として考えてみたらどうでしょう。「癖」という括りに問題あるかもしれませんが、射技が異なる引き手同士がお互いを見合えば、引き方の違いが「特徴」と捉えられる場合も実は引き方の癖と捉えられている場合もある様に感じています。大きな目線では、「癖を付けない」と「癖を直す」の差が射法と射技に分けた表現として考えた事もあります。この事は私の大学の師範の言葉に影響されているかもしれません。弓道に関する書物は癖がつかない様に基本に準じて引き方を習う事と付いた癖の治し方を習う事の違いが大雑把な分け方として考えられるでしょう。勿論大雑把な分け方なのでその限りではありません。悪い癖は無い事が最善ですが、非常に難しい事です。それに、流派独自の考え方も否定せず認め合う事は射法の中の気持ちの部分としては当然の事だろうと考えています。

初心から始めてある程度中たりが取れるようになった人からよく聞かれる例として、「的のどこそこに外れるのですが、どうしたら良いでしょうか?」の様な会話があります。「弓返りしないのですが、どうしたら良いでしょうか?」の類いの問いかけも同じ感じ方をしています。そんな人が弓術書を読んだり、先輩に聞いたりしてヒントを得る事は否定していません。ただ、実射を見ずに聞かれても困ります。原因も一つに限らないでしょう。

私自身も「こう引いて行くと的中が取れ、弓返りも起こり、冴えも出てくる」という教えを絶対的なものでは無くて、幹から分かれた大きな枝分かれと考えています。「どちらが」と優劣は付けられないという意味合いです。先ほどの会話を基本から言うと、「足踏みと矢は的に付いているの?」となるでしょう。「はい、確認してもらいました」という状態なら、その引き手の癖が関係するからかもしれません。ここからはそれぞれに対する助言も千差万別となるでしょう。いわゆる射法に沿った基本に引き手毎の特徴を加えてその引手に合う助言があるでしょう。

弓道教本の二巻から四巻まで一応目を通して、記憶の引き出しに収めておいてから色んな考え方も模索して自分の射と照らして総合的に弓道を見ていくことが大切です。流派や考え方が違う人と話す事で、違う視点から見る事が出来て、逆にヒントをもらえたという事も有りえます。悩んでいる時には違う考え方の人の方が自分では気付けない事を教えてくれる場合も多いです。いつも同じ場所で同じ物を見ていては、大きな変化は期待出来ないでしょう。教本も色んな弓術書も否定せずに、考え方の引き出しを増やしたいですね。教本や弓術書の選択は難しいですが、頭から否定しないで知識として多くに目を通す事は無駄ではないでしょう。

「違う、出来ない、難しい」と分かるだけでも良いと考えています。「やってみたけど駄目だった」という事は失敗と考える必要はありません。仕事でも何でもそうですが、同じ考え方の人が集まって話をしても斬新な考えは生まれないと思っています。自ら狭い所で弓道をする必要はありません。

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