mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

行射の流れを更に足す意識

大まかな意識の流れつまり源流から本流、支流へと繋がり、更に末端へと進んでいきたいと思います。

足踏みは胴体を支えて立つという目的が有りますが、同時に力を出す或いは受ける時の基礎となる面も有るので、動作を中心に考えると後者の意識が優先と考えられるでしょう。したがって込める力や受ける力の大きさに依って変化すると考えています。そうすると胴造りと似て固めて引く事には違和感を持っています。ここが支流の別れ道となりそうです。「自然体」という言葉の印象から考えてみても足踏み、胴造りの段階では弓力を考慮せずに足踏みはこうだ、胴造りはこうだと決めてしまうのはどうなんだろう?と思います。気持ちの柔軟性と同時に身体も成り行き(言葉は不適格かもしれません)に任せてどうなっていくかは自分を知る上で大切です。それも練習の時や緊張する場面と精神状況が違う場面で自分がどうなるかの違いも知っておくと役立つ事が多いと思っています。となると、打ち起こす前に足踏みは関節を伸ばす程度でよく、後は方向や角度の確認で充分です。問題は引き分けや離れでの弓や身体、重心の安定感が中心となりそうです。胴造りも似ていますが、足踏みよりは引き分けに関係する部分が大きくなりそうですがどうでしょう。射法八節を説明する時には足踏みや胴造りなど節の関係性は全て絡むので、どうしても色々足して言葉が多くなってしまう覚えが有りますが、敢えて今回は分けて、足踏みは肩線や腰との関係いわゆる三重十文字の準備としての役割が中心で、胴造りでの縦線に関する事は大事な意識として考えて、左右均等の引き分けを中心に貢献する節として考えています。つまり足踏みは三重十文字が中心で胴造りは造った構えが引き分けで崩れない様に左右の力配分が中心と言えるでしょう。

そうすると、打ち起こしは縦線と左右均等の引き分けに移る前段階となりそうです。となると弓を上げるというよりも右肘優先という基本につながるとなりそうですが。以前は矢を水平に上げる為の外見上の意識として考えていましたが、矢を水平が左右均等の為とすれば弓構えの円相と打ち起こしの肘中心の意識が変化するかもしれません。脇正面から見える矢の水平や水垂れに対する外見への意識を左右均等に振り替えて考える事が本筋だろうと思っています。左右均等なら矢は水平で身体と平行になるという逆方向からの視点で射を組み立てる方が大切になると考えています。したがって、審査の練習に少し意識や視点を変えるべきではないかと結構気になって反省しています。形から入るか働きから入るかは同じ様に見えて練習の道が大きく別れるという事でしょう。やはり働きに重点を置いて弓を引けば結果的にこう見えるという視点は大切にしたいと思っています。

胸を張る、肘を張るなど「張る」というイメージに疑問を抱えてきました。しかし、修練の段階では自分の身体を色々動かす必要が有るので自然体という訳にはいかないです。この事で細かい部分の修整だけをやり過ぎたり、細かい部分の場所だけで行ったり来たりを繰り返したり、意識の筋道が混じってしまったりする原因となっているのかもしれません。つまり、細かい部分の修整には全体像を頭に置いた上で行う必要が出てきます。「迷うなら基本に帰って考える」という事は出発点である引きたい弓の全体像に再び照らし合わせてみる必要性を意味しているのかもしれません。

ここ数回の話しの流れからおわかりでしょうが、細かい枝葉を考える時ほど元々の太い幹となる部分が大切になると考えています。

結局基本が大事となるでしょう。射法が言葉が難しく、解りにくい事は簡潔に記してある理由は、まとめてあると言うよりも、最低限これは守っていくべき事と言っているのかもしれませんね。

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