mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

引き分けの次に会に入りますが

私自身の癖ですが、昔から引き分けに時間を掛けている様に思ってきました。よく言えば慎重に引いている、悪く言えば色々してしまっているという感じです。自分の一番の悪癖だろうと気にしている事は、鼻の辺りから押手の肩をグッと伸ばす仕草が会へ入る前に傍目からも見えている事です。不要だと言われる事もありますが理由ははっきりしていて、高校時代に押手の肩が抜け気味だと言われていた反動です。的中にはさほど影響しなかったですが、指摘を受けるとやはり気になっていたのだろうと想像しています。その代わりと言えるかどうかわかりませんが、顔向けは常に褒められていました。現在は肩の方は抜けていないと思っているし指摘される事もなくなりました。その代わり顔向けは甘くなっています。歳のせいかもしれませんが首が突っ張らない程度に向けています。どちらが優先かは図りかねます。結局狙いは半月から変わり弓の中心に入ってしまっています。押手の肩を伸ばす事で勝手も引っ張っているとも思っています。引き分けの途中なので押手の肩だけ伸ばせる技術は無いでしょう。当然の様に無意識ながら勝手が力んでバランスを取っていると考える方が自然です。

全体的には引き分けの力み感は無くなってると自負していますが、外観に見える動作はなるべくなら無くしたいと思っています。

長年の習慣癖なので非常に困難だと考えられるでしょう。この事から押手の肘の入り具合も合わせて検討しています。最終的に押手の張り合い方は手首から先は弓を起こす方向で肩甲骨を立てるのと一致させて、肘は逆に内転方向に意識して、腕が一本の動きにならないように心掛けています。そのせいか押手の肩を会の前辺りでグッと伸ばす仕草も目立たなくなっていると思っています。ただし、肘と肩が会で伸び切ってしまうと離れでの伸長感が無くなるのではないか?という新たな疑問と格闘しています。多少の余裕がある方がより良いと思っていますが、正直わかりません。息も吐き切って離れるのでは無く、離れの前の息の余裕が必要だと考えているので、似た悩みです。

会ではただ持つ事がただ矢束になると気にしていますが、実際どうしているかと言えば、弛まない様に張り続けていると表現した方が近いと考えています。私が思う理屈的には、息(胸)を降ろすように無我?を目指す事で実際問題として発生する弛みを防ぐ為に、引き分けの延長として引き続けているが矢束は変わらない状態を造る事が会の一番の難題であると考えています。それを力で保つと離れでぶれやすくなる。「息を抜きながら力みを取ってしかも張りは変わらない」会の焦点はこれでしょう。矢彀(やごろ)が有るとすればそこで、軽い冴えの有る離れの出せる会は、「息は漏れ続け力みを抜いた最低限の力で弓力と矢筋の張りが一致した点」と考えています。したがって力みのバランスで保っていると疑う様な私の会では物足らず、道はまだまだ続くのでしょう。

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