mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

離れに関して

考え方の分岐点をまず挙げるとすれば、離れは「起きる」「起こす」の違いで射技は別れると思われます。理想からは起きるでしょうが、現実的には多くの場合「起こす」と考える方が受け入れやすいです。自然に離れる事は早気の感覚とは違い、元々は潜在意識が影響すると思っています。自然に身体が動く様に反復練習を繰り返す事で、意図的な事から無意識に動く様に脳に記憶されたという方が私には理解しやすいです。

ただここで別の問題点が生まれます。

考え方に向上心が有れば、射技を色々試して練習するだろうし、自分も色々研究して射技を良くしようと試行錯誤を繰り返す事は充分考えられるでしょう。したがって射技に対する方針が決まって反復練習をするにしてもいつから始めたら良いのか?同じ事の繰り返し練習が果たして良いのか?という葛藤が生まれても不思議とは思いません。私の場合も今のままで良いのか?という不安感が有るからです。こうした類の不安感は何かをする時には必ず起こる物だと考えています。いつまで初心者と言えるのかは人に依って違いが有ると思いますが、的中を取っていく上でいつまでも引き方が定まらない事はマイナスだとも言えます。逆に、ずっと同じ射を繰り返していけば的中が安定するという考え方も有るでしょう。

「離れ」は出す物では無く起きる物なら反復練習を繰り返す、ただし射への向上心は常に持ち続けなければならない。この矛盾を素直に抱えて練習を重ねていく事が大切です。

答えは見つからない事がほとんどです。

今は新型ウイルスなどで行動が制限される状況が多いです。学生さんなど行事も減り不運な巡り合わせの年代だと言う声も多く耳にします。オリンピックなどの話題も多く世間に取り上げられています。

日頃当たり前だと思っていた事が出来なくなる事は辛いですが、五体満足で弓を引ける状況が有るなら、そこに感謝して幸せだと思う基準を見直してみる事も大切です。ついつい昔を忘れがちですが、皆と道場に集まって当然の様に弓を引ける楽しさが帰るべき初心の一つと言えるでしょう。今日も弓を引けるという日常が有ってこその練習です。過ぎた向上心は単なる欲に含まれるかもしれません。

この様な在りのままを素直に感じる事が実は「離れ」の心持ちに通じると思っています。道場に立てる時間を持ち、道具も一通り有って、幸せな事に自分は弓を引ける身体を持ち合わせているという事を感じ取る感性が離れの最低条件と言えるでしょう。何故出来ないのか、自分はまだまだ駄目なんて卑下している間は離れは起きないでしょう。現実的に弓を楽しむ事は素直な離れの原点です。(と思いたい)

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