会と離れ
毎度ですが基本は別として、現在進行形の練習を自分で判断すると会と離れのどちらが主体の感じがするでしょうか?
まずは個人的な意見から。始めの間は引く事に一生懸命です。つまり会を作ること、会までどう引くかが主体だろうと考えられます。しかしある時期から離れが気になるようになってしまいます。良い離れを出すために引いている事になっていませんか?これは無意識に近く日頃気付かないと思われます。この潜在的な意識の分かれ目はやはり的中が絡んでいると考えられます。
残身が離れの結果で離れが会の結果であるというふうに関連付けていく事は八節の流れから見ても自然に思われます。一見辻褄が合っているように思えますが微妙に違和感を持っている事が今回伝えたい主旨になります。
別の言い方をしてみます。「離れが上手く(巧く)いかないので外してしまった。」「会の状態が悪いので外してしまった。」
「引き分けが上手くいかなかったので外してしまった。」この三択だとどれですか?
八節は連続動作という事は知識としては誰しも理解していると思われます。しかしよほど深くその事を意識しないと、結局離れが主体となり、離れで的を外してしまったと反省する事が増え、挙げ句の果てには中たりで離れの良し悪しを判断する事になっている可能性は案外多いと思っています。
自分の練習の方向は最終的に気になる部分が中心になります。これも言われてみれば当然に思えます。人の助言も自分が苦労した部分や今気にしている部分に集中してくるとも思えます。「もう少しここをこう出来たら中りが増えるのに」と思いながら練習している時には射法八節の流れからの連続性への意識は希薄になります。
言いたい主旨が上手く伝わったでしょうか?「うまく」を「上手く」と「巧く」の違いを説明しているような感じです。