mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

離れでの手の内ですが

前提として会と離れでは形は変わらないとしていて、理由は意図的な動作が加わると形は変化すると考えているからです。形が変わらない方が良いと限定するわけではありません。余分な動作を削ると形は変わらない、形が変わる事は余分な動作に含まれるか?は慎重に考えています。但し、力の働く方向は一定とは思います。弓力の働く方向の矢印と身体の働く方向は相対していると考えています。簡単に言うと三指で弓を捻る、或いは親指を握りに押し当てる、または手首を下に折る等の会が離れで矢筋に手の内が働く事は会と離れの一致とは考えにくいでしょう。曲げた親指を離れでぴんと伸ばしたりもそうですが人差し指を離れで握ったりも動作に意図が見えると考えています。力が抜けた手の内を手に入れて弓力も上げられてきた時に弓を取り落とす事が増えて離れで握る・・・必要悪かもしれませんが、弦切れや暴発した時に弓を取り落とす事の是非は今のところ考慮中です。自分の経験では弦切れの時に取り落とす割合は減って、暴発で取り落とす事は一度も経験がありません。会で手の内が力んできた事も充分考えられます。手の内が弓力を受け流すか?受け止めるか?で思いは変わるでしょう。通常は弓が返る以上取り落とす事は少し矛盾すると考えています。角見が効いているか?は皆さんはどこで判断されていますか?個人的には引き分けや会ではなく離れと残身に現れると考えています。そこに「会は引き分けの延長」と「会と離れで形は変わらない」のイメージを足してみれば手の内の余分な力が抜けていても弓は飛んでいかないと思われます。本多流の流れから言うと毎回弓が的と反対の本座方向に飛んで行くとか、阿波研造先生の道場の床には弓が落ちて付いた穴がたくさん有ると聞いた事もあります。元々私の母校の師範は本多流でした。自分が現役の時にはほとんど引退されていたので数回しかお会い出来ていません。本多流をもっと深く習っていれば、私も弓を飛ばす事に興味を持って手の内を考えたかもしれません。現在の主流としてはどちらかと言うと弦切れや暴発や離れで手に弓が無い事は想定外だと思っています。今回は結論とは考えにくいでしょうが、弓力が働く方向と身体が反応する方向は相対しているとして手の内を考えるという基本姿勢は問題ないと現状では考えています。

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