mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

射法八節の図に沿って7

引き分け、会へと進んでいきますが、今まで述べた前提を条件とします。とにかく前提条件でも無ければ弓道の話しは尽きませんね。ところが、この前提条件こそが自己の射技を確立していきます。

まず引き分けを一括りにします。打ち起こしから大三までと大三から会までが同じ身体の使い方だとします。したがって止まらない連続動作は当然です。これを守れば多くの雑念は消せます。手の内、肩、肘などの状態は打ち起こしから会まで継続します。例えば大三で肩や肘を入れる事の必要性は薄らいでいきます。手の内を効かすという事もありません。真っ直ぐ立っているなど重心の確認、狙い(矢の水平や平行)左肘と的の位置、矢尺、物見の弛みなど通過点での意識を持つ基準が示されていると考えられるでしょう。後は前回の息です。

大まかに、大三の力みに通じる事が余分だと考えられれば良いと思われます。弓力の右上り線にしたがって自分の状態を合わせていく事が左右均等には不可欠です。押手に偏る事、勝手に偏る場面を無くしていく事が大前提である左右均等を守る条件でしょう。すっと引く事はかなり難しいですが、「弓を力で引かない」という概念がある以上は、余分な力みを取る工夫は必要です。引き分けが硬い印象を持たれる引き手は、まず一歩として大三を止めないで引いて下さい。とても引きづらいなら大三を力んでいる結果かもしれません。ただ、本来の大三は止まりません。斜面打ち起こしでも三分の二を執る場合と取らない場合がありますが結局同じです。そうは言っても大三が引き分けの良し悪しに影響する事は否定出来ません。そこは、大三の良し悪しというよりも通過の仕方というふうに考えてみたらどうでしょうか。少し引き分けに対するイメージも変わるかもしれません。イメージを持たない摸索は結局遠回りで一貫しないと思われます。物見を弛まさずに目の付け所が変わらなければ、いずれ意識も安定します。練習とはそういう積み重ねで成り立つでしょう。何度も言う様に、意識の偏りは違う部分の弛みにつながります。全身にくまなく意識を巡らす事も習慣で可能にできます。たぶん「雪の目付け」なども的を凝視する事では無く「集中」に重きを置く言葉だと考えています。

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