mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

引き分けと手の内の関係

ここの理解は大切です。手の内を考える時に引き分け方が影響すると思って下さい。勝手が強ければきちんと弓を押していけるようになります。押手、手の内中心の射でもかなり的中は良くなるという事も確かに考えられますが、当然左右均等の概念からは少し離れます。押手中心で勝手が弱いと離れのぶれが多くなりやすいので、努めて軽く離そうと試みますが、これは本来の軽く鋭い離れとは言えません。悪く言うと消極的な離れになります。結局は離れも残心(身)も作為的に作る様になるでしょう。結果的に指先の操作が主体となり、ますます肘が甘くなって離れが出難い悪循環に陥ると考えられます。意外にも思い切りのない離れは逆にぶれます。乱暴に後先考えないとまでは言えませんが、思い切って腕を伸ばす方が案外結果が良くなると思っています。

「何も考えないで引く」事に抵抗の有る人は多い印象ですが、射法八節の残心では「自己の心を見つめる」という文面が有ります。これはかなり意味深い言葉です。いつも射技の悪かった(?)部分の事ばかり気にしていませんか?至誠を尽くしたか、集中して引けたかをまず反省して下さい。人により雑念の範囲は違うかもしれませんが、射技全般の事が真っ先に来る様なら、一応それも雑念の一部だと考えています。せめて弓倒しをして矢を番える間に考えるとして、まずは精神の状態を反省して下さい。ここは狙いと同じで自己判断です。禮記の射技項が言う様に、射を見てその人の人となりを判断するならば、その時に押手の肩がどうの勝手の肘がどうの手の内がどうのと気にする様は相応しくありません。的中云々に関わらず堂々と残心(身)を執り弓倒し出来る様にしましょう。

教本の第二巻射技編の中に「射裡見性」という言葉を宇野範士が言われていますが、「行雲流水即弓道」という射の境地を意識する事が個人的には好ましいと思っています。射技編とはいえ精神面が語られているのは、やはり心の状態も技術として考えるべきでしょう。

×

非ログインユーザーとして返信する