mypace-mywayのブログ

未熟なりに弓道を考えて、わかりにくい事を単純にし、自分の頭の中を整理した道筋を残しながら、迷った時に戻って来る拠り所の場所を作ってみたい。「あの頃はあんな事を考えていたのか?」

離れの左右

自分の内面が外見にどう表れているか?この一致は非常に困難とは思っていますが、自分の内面から見た「離れ」を言葉にしてみようと思います。タイトルの「左右」という意味合いは、例えば右肘に呼応するのが左は左肘といった具合に背筋を挟んで左右をどう感じているかという事です。一概に言えないのは当たり前ですが、離れの瞬間がどう出て行っているのか?或いはどこにより多くの意識が有るか?に絞って考えてみたいと思います。
実は時々によって揺れ動いていますが、直近では左肘の下側と右肘の関節辺りの裏的側が多い様に思っています。手の内は中押し気味で会に入って左肘を肩で自分なりに弓力に負けまいとしている感覚で、右手は肘先と言うよりは少し上の手首方向に上がった所です。そのため右肘の関節辺りと表現しました。右手先は中指に感覚を残すように会にもって来る事を意識しています。したがって、手先は中指で堅帽子が弦に引かれて伸びきる事を抑えている感覚が有るために、手先の意識を完全に抜けない状態から離れを出していると思われます。よって右肘先よりも手首側への張りのような感覚が出てきているのだと想像しています。大三で右肘から先を完全に流し切れて無いのも理由の一つとも思っています。逆に肘から先を完全に流してしまうと、右肘が畳み過ぎてしまうという事を恐れているせいも有り、「大きく引く」という思いから間違った選択をしている可能性は大きいですが、未熟なために現状では中指を抜き去るように離れを出している様に思えています。正直今の自分のレベルでは、右手先の完全な脱力は不可能です。ただし、最近は会での暴発が2、3度有ったので、実は中指の最終的な肘への受け渡しが出来てくると、夢の「自然な離れ」も出来るのではないかとも思っていますが、甘いのでしょう(^.^)
暴発時は的中はしますが、弓返りがまちまちで気持ちが悪いです。弓返りがまちまちになっているのなら、勝手離れでタイミングは合っていず、日頃はタイミングを合わせて弓返りをさせてしまっている事を露呈したに過ぎないのでしょう。幸い、手の内を背面に振る事は無いので、いつか一定の弓返りをさせたいと思っています。

逆走の離れ

前回は鉄棒の順手、逆手の持ち方を電車の吊革も絡めて書きましたが、それに関連して陥りやすい「離れ」のイメージについて書きたいと思っています。
正面打ち起こしのリスクである腕の力味にも関係しています。
「離れ」で勝手が引っかからずに素直に軽く離せたらと悩む人の取懸けを見てみると、かなり「浅い取懸け」が知らず知らずに進行している方に出会います。「取懸けはきちんと、しっかりと引ける状態にしないと離れにくい」事、軽い離れはしっかりと引き分けた会から生まれるものと私の思いを伝えていますが、「手先の力が抜けなくて」と返答されます。取懸ける時から離れを思っているのはどうでしょう?まずは会までしっかりと引き分ける事が先だと思います。取懸けが浅いと結局は指先に力味が付き、結果的に大きく引けずに、離れで余分な力みを加えてしまうという悪循環に陥っている事はありませんか?勝手の肘への弓力を肩で受けれる位置まで引き分けていないで、手先の力を抜く事は不可能だと思います。まして、引き分けで手先の力をゼロにはできません。離れを良くしたいのに、会で手先に集中してしまっては本末転倒です。自然な「離れ」目標であれば、「会」を深い?物にするべきだと思っています。頭の中では思っていても、人情として気づかないうちに浅く取懸けていないか再度確認したいものです。手先の力みを取りたいがために、引き分けが小さくなっていないかも同時に注意すべき事でしょう。(押手との事はひとまず抜きにします)
取り敢えず、会で肘肩、縦線への確認が済むまでは「離れ」を意識から外しましょう。肩線の張り、矢筋の張りは強弱が有っても、どちらかゼロにしては弓は引け無いと思っています。要はバランスです。手先が強いと肘が甘くなってしまうし、肘だけで引いても畳み過ぎになってしまうかもしれません。「会」での意識の焦点は第一が縦線で次に縦線を利用した横線、そこから色々な雑念を取り去って行きたい。そこで離れに集中してしまうと横線が無意識に縮んでしまう元と思っています。的心を集中して狙う場面で上手く離せるかと思った時点で離れは濁ってくると思っています。
例えば、弽の中の指の様子などを今更ながら意識を向けてみるのも悪くは無いと思います。取懸け、引き分け、会の状態が変わらないのに、離れだけを改善するには少し無理が有るように思うのですが・・・
私も無意識にしている事が段々と増えているのでしょう。自分では中々気付かないのは当然です。
弽は離れに必要な道具ですが、同時に弓を引くための道具です。離れで悩む時にはまずは大きく引く事を心掛けたらいかがでしょう。「会者定離」を持ち出すと大袈裟かもしれませんが、会に入ってから意図的に戻さない限り、持ち続ける事は出来ません。どの段階で離れるかが問題であって、離れないまま倒れ込んだ人は居ない位の余裕を持って会に望めたら良いのでしょう。私も最近は良く反省する事ですが、会で離れが非常に気になる場面が増えてきた様に思えます。気になる事は意識するなという方が理不尽なのでしょうが、弓構えから打ち起こした後は的に集中して無心に引けたらと願っています。もしも会で心の声が外に聞こえるなら、何てしゃべっているのでしょう?聞きたいような、聞きたくないような(^.^)

今の自分

私は正面打ち起こしで大三を取って引き分ける射法を選択しています。そのため、普通に大三で悩み、勝手の力味で悩みと、正面打ち起こしのリスクに順調に?悩まされています。
ここ最近は、肘と掌の向きを合わせる事に注意して練習しています。取懸け、打ち起こし、大三の三節辺りでここがポイントではないかと悩んできたことです。
人は日常で肘の向きと掌(てのひら)の向きを捻じらせて使っている事が多いです。このPCに入力している時もそうですが、字を書く時、物を取る時、指先を使って何かをする時の殆どがそうです。例えば皆さんが鉄棒にぶら下がっている時の腕の使い方を想像してみてください。「順手」と言われる鉄棒の持ち方は、腕を捻って手の甲が自分から見える方向に握っています。次に「逆手」と言われる持ち方をされる人も有るでしょう。逆に手の平が自分に見える方の持ち方です。弓道を始めた当初、多くの人が電車の吊革を掴む時の力まない持ち方を、力の抜けた持ち方の例えとして目や耳にしていると思っています。そこで、もう一つ想像を膨らませて、吊革が前に有る時と、左右に有る時の腕の感じを思ってみてください。前に有る時は鉄棒の順手の時に似ています。左右に有る時は逆手の時のまま横に向けた様に思えます。吊革が左右に有る時の、手首と肘の向きが一致している感じを大事にして弓を引こうとしています。
肩や肘、手先などを力まずに、弓構えで肘を張るには有効な方法だと思っています。結構な高確率で、執り弓、弓構え、大三で「肘を張れ」と言われてきた人もいるのではないでしょうか?私もそうですが、特に高校時代では毎日のように「肘を張れ」と耳にしていました。その「肘を張れ」という言葉の解釈に誤解を持って高校時代を過ごしてきた事で、「肘を張る」=「肘・肩の力味」の構図が生まれてきたように思っています。「肘を張る」に力はいらないと今更ながらに確認している次第です。
私は筈こぼれしませんが、右手首を捻る意識も有りません。中仕掛けと筈もスルスルで、番える時に抵抗も一切無く、出し入れ自由です。学生時代には捻って筈こぼれを避けていましたし、矢を番える時の「ビビン」という音も当然の様に楽しんでいました。そういう過程を通ってきたからこそ今が有るとも思いますが、取懸けは、不必要な回り道をしなくても出来るとも思っています。反対に、肘と手首の向きを気にかけているだけで手の甲は天井に向き、自然と捻られている結果を作れていると思ってきました。私の矢は、弓構えや打ち起こしで簡単に抜き取れると確信しています。弓はというと、弓構えでは割と簡単に上に抜きとれますが、打ち起こしでは「手の内」の力味が完全に抜けないので、いまひとつです。大三への移行の際に勝手の肘から先を弦へ預けて受け渡すのに、手首の捻りと肘の力味が邪魔をしている事には確信が有り、そこが正面打ち起こしの醍醐味を感じているのですが、どうでしょうか?そうはいっても、勝手の肘先全てを押手に預けてしまうのにも疑問が有ります。肘を少し伸ばし広げる方向の意識も離れに向けては必要と思っています。要は余分な力を入れないで済むところには極力、力を抜こうとして優先順位を付けるべきなのでしょう。